黄檗山 宝蔵院 〒611-0011京都府宇治市五ヶ庄  TEL 0774-31-8026 info@tetsugen-zakura.com 黄檗山宝蔵院は、1669年一切経の開版を志した鉄眼禅師が、隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立したものです。

 

日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 1  宗祖・隠元禅師について

  今回から、新しく宗祖・隠元禅師に関する記事を投稿します。

  隠元禅師(1592〜1673)は、中国明末期に福建省に生まれられ、晩年、日本に渡来、多大の功績を残された方ですが、意外とその功績や行状は知られていません。

  本稿は、『日本仏教中興の祖』と仰がれた隠元禅師について、その人となりを知っていただくため、昨年の8月から11月にかけて『東京華僑報』に連載した記事をそのまま転載したものです。本稿によって、黄檗宗と禅師への理解が深まれば幸いです。 


=黄檗宗大本山萬福寺開創三百五十年記念特別寄稿=
日中仏教文化交流の魁 隠元(いんげん)禅師(1)
(著者 住谷瓜頂、1946年滋賀県生、黄檗宗大本山萬福寺執事、黄檗宗務本院庶務部長兼教学部長、黄檗宗布教師会幹事、塔頭・宝蔵院住職)

○はじめに  
  日中両国は、古くから”一衣帯水”の隣国として交流を深め相互に発展してきた。
  中でも明僧・隠元禅師の渡来によってもたらされた日本の発展は、歴史上類例を見ない広がりを見せ、日中仏教文化の交流史上、特筆に値する一大事である。
  禅師は、明末期の中国禅界にあって、名だたる高僧であったが、高齢を押して渡来され、徳川将軍・家綱公から新寺を賜ることとなり日本に留まられたが、その生涯は、まさに日本と中国とを繋ぐために献げられたと言っても過言ではない。
  日本にあっても故郷への思いは断ちがたく、開創された新寺は中国の住山地と同名の『黄檗山萬福寺』と名付けられたが、これこそが我が使命と自覚されていたようだ。
  この黄檗山萬福寺は平成23年5月8日に丁度350年を迎える。
  私たち黄檗宗では、こぞってこれをお祝いし、平成23年から24年にかけて慶讃事業を企画し、国内はもとより禅師の想い出の地、福建省の黄檗山でも記念事業の実施を計画している。
  今回、幸いにも本紙の貴重な紙面をお借りし、禅師の功績を紹介する機会を得ることが出来た。願わくば、多くの読者がこの一文を通じ、このような優れた中国僧がいたことに想いを馳せていただきたいし、この機会に慶讃事業に参加、協力し、ご支援いただきたい。
  それは、きっと隠元禅師の願いに通ずるものであると確信するからである。(続く)
クリックすると元のサイズで表示します
<隠元禅師画像 黄檗山萬福寺蔵>

続きを読む
9

2010/2/23

日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 5  宗祖・隠元禅師について

日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 (5)

○印刷伝道のパイオニア・隠元禅師

  隠元禅師が、故郷に錦を飾る形で黄檗山の住職に迎えられ、最初に始められたことは、入山の24年前に皇帝から下賜された一切経(大蔵経)の閲読であった。それは、この経典を賜るために苦労された歴代住職と気持ちを一つにすることであったからであろう。

  次に始められたことは、荒廃した伽藍の復興と併せ、経典等を印刷する「刷印楼」を設けられることであった。
  私たち現代人からすれば出版活動は少しも珍しいことではないが、この時代、「出版」以前の「印刷」というそのこと自体が非常に先進的なことであり、刷印楼を設けることは非常に勇気の要ることだったからである。この点で隠元禅師は非常に先見性をもった方であったと言えよう。

  グーテンベルグの印刷技術はいち早く中国に伝えられ、独自の発展を遂げていたが、最も大きな課題は、複雑な形状をした何万字もの漢字を一定のスタイルの活字として如何に早く大量に製作するかであった。そしてついにはこの課題を克服した版木の彫り方が開発され、「明朝体(みんちようたい)」文字が誕生したのである。
  如何に漢字が複雑といっても、基本的には縦、横、斜めの線で構成されているから、これを分業で流れ作業にして彫ることとしたのである。
  分業の各担当者は、空白箇所ばかり、縦線ばかり、横線ばかり、あるいは斜め線ばかりを彫ることに専念することによって文字の形状は一定化し、彫刻能率も向上し、ここに誰が彫っても変わることのない美しい字体が創り出されたのである。

  今日、日本の新聞はこの明朝体活字を使用しているが、これを我が国に普及定着させたのは外ならぬ、隠元禅師の教えを受けた鉄眼道光(てつげんどうこう)禅師である。この件については、稿を改めて紹介したい。

 さて、黄檗山の「刷印楼」から、中国全土に向けて多くの出版物が刊行され始めた。この中には、禅師の語録類(法要の席で話された重要な話等を記録したもの)も含まれ、その一部は日本に伝わり、禅師の将来を大きく左右することとなるが、この時、禅師はそんなことを知るよしもなかった。
 (続く)

5

2010/2/13

日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 4  

=黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念特別寄稿=
日中仏教文化交流の魁   隠元禅師 (4)

○舟形の石を一夜で平に 
 
  こうして、周囲から尊敬され、故郷の黄檗山からは是非住職にとの誘いが来るようになったが、禅師はこれを断られ、獅子巌(ししがん)でさらに修行に励まれていた。
  禅師は、いつも舟形の岩上で坐禅をされていたが、周囲の人たちからは、もっと良い場所があるのにと思われていたようである。

  四十六才のある日、弟子の一人が「この岩がもう少し平らであったらよろしいのに」と話しかけたところ、禅師は香を焚かれ、「わたしの誠が通じるなら、この石はきっと平になるだろう」と、『大悲咒(だいひしゅ)』という千手千眼観世音菩薩を称えるお経を読誦され部屋に戻られた。
  と、翌日の朝、弟子が禅師の元へ慌てて駆けつけ、「不思議です。あの石が平になっています。」と言うではないか。
  この因縁によって、石は『自平石(じへいせき)』と呼ばれ、隠元禅師の名前はまたたく間に全土に知れ渡った。そうして、間もなく黄檗山萬福寺の住持として晋山される。

  読者諸氏は、果たしてこの話をどう思われようか。誰かが、禅師のために石を平にしたのだろうか。あるいは、石が平になるほど熱心に修行されていたことを強調する創話であろうか。
  いずれにせよ、この話は、禅師が日本到着以前に多くの日本人の知るところとなっていたのである。
(続く)

クリックすると元のサイズで表示します
日本黄檗宗の協力で建設された「古黄檗・隠元記念堂」
3

2010/2/8

日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 3  宗祖・隠元禅師について

=黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念特別寄稿=
日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 (3)

○中国の黄檗山について
  隠元禅師が僧を志し発心されたのは遅く、23才の時である。しかしこの時は敬慕される母が許さず、結局、29才になってから得度されている。

  得度地は故郷の福清市魚渓鎮にある「黄檗山萬福寺」(私たちは古黄檗と称している。)だが、この寺院は、草創期に『黄檗希運(きうん)禅師』という著名な禅匠を輩出したことで知られた1200年の歴史を有する名刹である。
  また、禅師が住職として黄檗山に入山される前の1624年には、当時の寺院に於いて最高の栄誉とされた『大蔵経(だいぞうきょう)』(仏典中、重要とされる経典類)の下賜が地元有力官吏の努力によって果たされている。こうした営々と積み上げられた歴史にさらに花を添えた僧こそが、本稿の主人公・隠元禅師なのである。

  余談ながら、1983年、中国国務院は黄檗山を重要寺院として漢民族地区仏教全国重点寺院に指定している。

 前述したように、僧としてのスタートが遅かった禅師は、この遅れを取り戻そうとされたのか徹底した修行ぶりで、同僚も驚くほどだったという。
  30才のある時、「経典通りに解釈したら誤って解釈しそうだし、経典を離れて解釈したら魔説になる。どうしたら間違いをなくせるだろうか。」と先輩僧に質問されたところ、その僧は「30年後に答えてやろう」とはぐらかした。
  禅師は、「人を欺くのも甚だしい。経典を解釈するのに30年も待ってられるか。」と、発憤され、黄檗山を飛び出し浙江省や福建省の禅林に大徳を求め、修行を深められている。こうした厳しい修行により、当時、大禅匠といわれた密雲(みつうん)、費隠(ひいん)両禅師と巡り会い、ついに35才で悟りを開かれ費隠禅師から臨済正伝の法を嗣がれた。
  戒律を守られる姿勢は人一倍強く、巡寮の際、煙草の匂いがするのに気付かれ、煙草を止めるようにと漢詩でそれとなく諭されるなど、厳しさだけではないウイットに富んだ方でもあったようである。
(続く)

クリックすると元のサイズで表示します
「古黄檗・大雄宝殿近影」
2

2010/1/27

日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 2  宗祖・隠元禅師について

=黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念特別寄稿=
日中仏教文化交流の魁 隠元禅師 (2)

○禅師の偉業あらまし
 隠元禅師は、江戸時代初期(明末)、福建省出身の臨済宗(禅宗)きっての高僧である。 
禅師来日の目的は、長崎留日華僑のために正しい臨済禅の教えを広めたい、ただ、それのみであったが、日本黄檗山萬福寺の造営という大事業を導きだされたばかりか、日本文化の発展、近代化に大きく貢献寄与されることとなった。
  沈滞していた日本仏教界は一挙に活性化され、禅師は「鑑真和上の再来」あるいは「日本仏教・中興の祖」とまでと称され、尊崇されている。そればかりか、禅師の宣揚した宗風は、「黄檗宗」という日本三禅宗の一教団を形成することとなり、こうした功績によって遠忌が行われる度に天皇から謚号が贈られ、いただかれた国師号は四つ、大師号は二つにもなる。
  さらに、禅師は『印刷』、『書』、『絵画』、さらには『建築』、『詩文』、『篆刻』、『料理』、『煎茶』等々、多くの分野で新たな文化のうねりを起こす功績を遺されている。

  少し脱線するが、皆さんは羊羹はお好きだろうか。この羊羹に使われている『寒天』は日本が誇る発明品であるが、その名付け親が隠元禅師だと言うことを知る人は意外と少ない。また、日本の印刷技術、否、出版事業のパイロットは誰かと問われれば、即座に隠元禅師と答えるだろう。まだある。大げさだと受け取られるかもしれないが、日本の図書館の開設は、禅師が来日されなかったら、おそらく4、50年は遅れたと考えている。

  禅師こそは、江戸期初頭における日本文化振興の旗手だと言ってはばからないのである。

  禅師にまつわる逸話は非常に多いが、その一部を繙きながら、禅師の半生と、その活動を通じて日本文化がどのように発展したかを述べたい。
    (続く)
クリックすると元のサイズで表示します
<黄檗宗大本山萬福寺大雄寶殿>
2



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ