六甲比命神社 秋の護摩供養のお知らせ  

 六甲比命神社護摩供養

 爽やかな季節を迎え、皆様益々ご清祥の事と拝察申し上げます。 
さて、新たな令和の御代、即位の礼の直前に六甲比命大善神社の秋祭り、護摩供養を執り行います。ご多忙と存じますが、近隣お誘いの上ご参加下さいますようご案内申し上げます。
 お申し込みの方は、必ずご住所、電話番号、全参加者名・人数をメールまたは電話にてお知らせください。
本年もさわるみゅーじあむ=六甲山の上美術館さんのご厚意により、美術館内で直会(お弁当の昼食会)を催すこととなりました。お車は美術館の専用駐車場へとめてください。場所:六甲山カンツリーハウスから北西方向へ一本道
お申し込み締め切りは10月14日月曜です。会場設営の都合上、必ず事前予約をお願いします。期日までの予約なき方には昼食をご用意できません。
電話090−6732−1086 林  メールprime.02w@k5.dion.ne.jp 
             記
 行事 諸事祈願・護摩供養
 日時 10月16日(水) 午前10時30分より
場所 六甲山吉祥院多聞寺奥の院 心経岩前
 雨天決行(荒天による中止・延期の際は六甲比命講サイトでお知らせします。http://rokkouhime.cocolog-nifty.com/blog/)  
参加費 3000円 (直会不参加の方は2000円)
護摩木代2枚は無料、3枚目より200円/枚
 (ほかに、当日護摩札を入魂後、希望者に有料で頒布いたします。)
                    六甲比命講
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関西ホツマの集い 次回のお知らせ  

第72回 関西ホツマの集い 定例会のお知らせ  
平成31年4月27日                            
平成から令和の大きな節目の次節です。皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
まず、最初にたいへん残念なお話です。
関西ホツマの集い結成当初より参加されていた小池正人様(和歌山県海南市)が3月初旬に逝去されました。 まだ60代半ばで、今後のご活躍が期待される方でした。関西ホツマでは、特に和歌、ワカヒメ様をテーマとする研究報告をしてくださっており、多大な貢献をされてきた方です。
謹んでお悔やみ申し上げます。

5月26日日曜1時半〜より第72回関西ホツマの集いの定例会を催します。
参加・不参加のご連絡を5月22日(水)までに林までお願いします。電話、ファックス、メール、いずれでも結構です。
場所は新長田勤労市民センター 4Fさざんか です。

内容は会計報告、情報交換と林の学習報告、そして秋の旅行の行先決定と担当者選出です。新年度会費の徴収をいたしますので、お忘れなく持参ください。
◎旅行先候補 
例 出雲方面 出雲大社 神魂神社 荒神谷遺跡 美保神社 他
  京都市内 上賀茂・下鴨 御蔭神社 比叡山 深泥池  貴船神社 他
  兵庫県内 宍粟・姫路 日岡神社 ヤマトタケ生誕地 雄岡山雌岡山 
六甲比命神社 唐櫃多聞寺 花山院菩提寺 他 等々

◎学習報告の予定 豊原さん研究報告  「閏月について」をテーマにした研究報告です。

会員の皆さんから、小さなことでも、大きなことでもホツマに関すること、神道に関することでの研究発表を募ります。よろしくお願いします。 
 п@090−6732−1086 
ファックス 0797−32−0599  
メール  prime.02w@k5.dion.ne.jp
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2019/3/6

関西ホツマの集い 報告  

 第71回 関西ホツマの集い 定例会の報告  
平成31年2月24日神戸長田にて開催                            
近況報告  ◎岩井さんから 書籍出版情報
 千葉富三さん 『甦る古代 日本の原典 秀真伝』
長浜 浩明著 『古代日本「謎」の時代を解き明かす』
◎林から 加部節男さん 『よみがえる天成る道 神道の体系と教義』
◎久下さんからパンフレットの頒布 3種類 
 神社本庁発行『国やすかれ 民やすかれ 天皇さまのおまつり』 同発行『御大禮乃儀式』即位礼 大嘗祭 同発行『御代替り  平成から新しい御代へ』 
◎林から催しのお知らせ: 古事記朗読荻野恵美子さんと六甲山心経岩他で古事記とホツマのコラボ朗読会を3月21日に実施。

<学習報告>豊原さんから「倭姫についての4書比較ホツマ、倭姫命世紀、皇大神宮儀式帳」の報告がありました。
 時代、倭姫の年齢との照合、巡幸地の再検討、外宮の遷座の時期の記述の相違、どれが真実なのかについて、比較表や、地図を参照しながら、説明されました。旧暦の神嘗祭の日にあたると思われる9月16日が、まず大国魂の神遷しの日、71年後母のカバヰツキヒメが大国魂神の幣を賜わる夢を見て身ごもった日、3年後に倭姫が生まれた日、15年後サゴクシロウジにアマテル神を遷座した日、という風に連続して登場し、倭姫命が神の使いであったと思われる点が興味深く思われました。

 林さんからは「伊勢神宮の変遷」と題する報告がありました。
 特に内宮正殿は明治以前、御神体を遷した後の社殿もずっとその後19年間保存される、つまり両社殿がほぼ常に並んでいたようで、江戸時代の絵図では御神体の無い正殿の敷地の中まで入ることができた様子がわかります。現代の伊勢神宮とはかなり様相が異なっていました。

 参考文献 武澤秀一著『伊勢神宮と天皇の謎』文春新書

第72回関西ホツマの集いの定例会は5月26日日曜 新長田勤労市民センター4Fさざんかです。研究報告未定です。秋の旅行先を決定します。会費徴収あります。 

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2019/2/13

関西ホツマの集い  

 平成13年より、清藤代表を中心に関西地方でホツマの研究をしている関西ホツマの集い。
 ホームページの容量の限界や、使い勝手の問題から、ブログを開設することにしました。
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2019/2/13

71回関西ホツマの集い定例会  

第71回 関西ホツマの集い 定例会のお知らせ  
平成31年1月27日
                            
昨秋の素晴らしい旅行の余韻がまだ残っております。皆様、厳寒の中、お元気でお過ごしでしょうか。 
2月24日日曜1時半〜より第71回関西ホツマの集いの定例会を催します。
 参加・不参加の連絡を2月22日(金)までに林までお願いします。電話、ファックス、メール、いずれでも結構です。

場所は新長田勤労市民センター 4Fさざんか です。

内容は情報交換と豊原さんと林の学習報告です。
学習報告の予定  倭姫について 豊原氏メイン報告  1時間程度 
        伊勢神宮の変遷  林 報告  15分程度
会員の皆さんから、積極的に研究報告をお願いします。どなたかいらっしゃいましたら、学習内容変更・追加もあり得ます。

 п@090−6732−1086 
ファックス 0797−32−0599  
メール  prime.02w@k5.dion.ne.jp

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2018/7/13

ムーに初のホツマ記事!  

http://gakkenmu.jp/mu/16003/


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2018/5/13

関西ホツマの集い定例会の報告  

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関西ホツマの集い  定例会 平成30年5月27日 結成17周年

 清藤代表 祝 ご回復!
 
会の進行

 会を始めるにあたり、まず、清藤直樹代表の私のホツマツタエ(限定50部)完成、頒布が行われました。

会費の徴収一人年会費3000円 (オブザーバーは不要)
代表・役員の交代 清藤代表は大病回復後のため、林が代表、その代わり、役割を他の会員と分担で。
近況報告 情報交換
ホツマに関連する新刊本 宮崎貞行氏の『失われた奥義 縄文古道の よみがえり オモイカネの謎を追って突き止めた《ヒソギとミソギと日月の秘儀》』
林 研究報告 「垂仁天皇から継体天皇 高島 樟葉 高槻 ホツマ」            
秋の旅行 日程・行先・担当者決定

  5月27日段階では、青写真として、 10月27・28日の土・日 富士山周辺(岐阜県中津川市の恵那神社、長野県伊那の阿智神社、山梨県、ミカサフミ断片と思われる文書の発見された河口浅間神社(御師の方のところ)、三島大社・柿田川・滝川神社 
 旅行計画担当者を決定。 6月末に行き先を確定して、行き先についての事前学習を、次回8月の定例会で実施。 

次回は8月26日日曜1時半〜 会場は、新長田勤労市民センター(予定)

 研究報告資料(一部)
「垂仁天皇から継体天皇 高島 樟葉 高槻 ホツマ」  
 ホツマの立場から垂仁天皇から継体天皇までの皇統を考察する
◎継体天皇 450〜531 在位 507〜531 即位58歳 82歳
 応神天皇五世の子孫 または垂仁天皇の御子の誉津別命の子孫
 父 彦主人王 滋賀県高島市 
母 振姫 福井県坂井市丸岡町高椋  垂仁天皇七世の子孫
母方の故郷で育ち、成人し、越前国を治める
 もっぱら記紀に基づいて考察する学者の継体天皇への疑義
 ホツマを知る人の継体天皇観
継体天皇出生地 滋賀県高島 ホツマ文書が保管された場所 育った場所 2018年豪雪の坂井市

◎武烈天皇 489〜506 在位 498〜506 即位10歳 18歳
 武烈天皇を祀る神社の存在
「はてノ鹽竈」 というブログサイトより
宮城県には武烈天皇の伝承が色濃い地域があります。
 諸々の資料・史料から、武烈天皇、または小長谷若雀(こはせわかささぎ)や小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)など、武烈天皇をあらわす呼称が確認できたものをあげてみます。
和我神社 栗原市築館 主祭神 武烈天皇
新山神社 栗原市志波姫 主祭神 武烈天皇
山神社 栗原市尾松 主祭神 小長谷若雀(こはせわかささぎ)尊
山神社 栗原市姫松 主祭神 小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)尊 
石留神社 仙台市泉区七北田字石止 主祭神 武烈天皇
ゆるぎの松 栗原市瀬峰 武烈天皇のお舟つなぎの伝説あり
王壇 栗原市瀬峰 武烈天皇の陵墓説あり
 この中で、武烈天皇の御陵とも伝わる栗原市姫松「山神社」の由緒は、この地の武烈天皇伝承のあらましを最もよく語っているので、当地の教育委員会(旧一迫町教育委員会)と財団法人宮城県文化財保護協会が設置した境内案内版の説明を転記致します。
――引用――
第二十五代武烈天皇が故あって奥州に配せられ、寵臣久我大連と鹿野掃部之祐(かのかもんのすけ)両人を従えてこの地に下り崩御されたと伝えられのちにこれを祀って「山神社」と号した。
一説には武烈天皇が当地に追放され、久我大連が天皇を慕ってこれを祀ったとも伝えられている。
天皇の配所もしくは神として祀った地が天皇山(王山林)、久我等のいた地が王沢だと伝えられている。宝物として陣釜、神鏡が久我家に、阿、呍、の御面ニ面と天皇が着たと伝えられている錦の着物の一部分が虫食いの状態ではあるが現在も神社に保存されている。
◎武烈天皇が日本書紀に悪く描かれている理由
 平群真鳥の悪行 「竹内文書」は平群真鳥作
「竹内文書」では 天照大神を
22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(天照大神) アマサカリヒムカツヒメミヒカリアマツヒツギアメヒノスミラミコトとする


 ◎平群真鳥 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 >古代豪族平群氏の代表的人物。『日本書紀』には、雄略朝から武烈朝まで「大臣(おおおみ)」を連任したとある。平群氏は、大和国平群郡平群郷(現、奈良県生駒郡平群町)付近に本拠地があった有力豪族。『古事記』孝元天皇段に武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、平群都久(木兎)(つく)宿禰が見え、『日本書紀』はこれを平群氏の始祖とする。木兎宿禰は、『日本書紀』に仁徳天皇(名は大雀・大鷦鷯(おおささぎ))と同日に生まれ、産屋に飛び込んだ鳥の名を交換して名づけたという伝説がある。平群氏の朝廷における実力を窺わせる。平群真鳥は、履中朝に国事を執ったとする木兎宿禰の後をうけて、雄略朝以降、大臣として国政にあたったとあり、武烈朝での専断を咎められ、大伴金村(おおとものかなむら)により殺されたとある。『日本書紀』は、真鳥が死にあたって、海の塩を呪ったので、天皇は真鳥が呪い忘れた敦賀(つるが)の塩のみしか食することができなくなったとする。『古事記』は、真鳥のことは全く載せず、『日本書紀』に真鳥の子とする鮪(しび)の物語のみを載せている。木兎・真鳥・鮪など、人名に鳥や魚の名を採用するなど、伝説的な記事が多く、史実に基づいた記録ではなく、実在性も疑われる。ただ、「臣」をカバネとするなど、大和政権において有力な豪族であったことは、間違いないところであろう。<

◎林 恒例 新たなライン発見!
 継体天皇と瀬織津姫 関連ライン 
 丸岡 河濯神社が近くに鎮座 (継体天皇をご支援されるかのごとく関連地に、瀬織津姫を祀る神社が多い)
 ・六甲比命神社→今城塚古墳→樟葉宮跡(貴船神社) 一直線で並ぶ
 
 ・東大寺お水取りと瀬織津姫
 A鵜の瀬から真東に滋賀県高島の唐崎神社
 B福井県あわら市の河濯神社→ 武生市 河濯山芳春寺→武生市 紫式部住居(現公園)→ 滋賀県唐崎神社→ 東大寺境内→ 遠敷神社→ 二月堂→ 三月堂 これらがすべて一直線で並ぶ!


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2018/4/13

関西ホツマの集い 5月定例会  

 平成30年5月27日 第68回関西ホツマの集い を以下のように開催します。 
 参加ご希望の方は必ず事前にご連絡ください。 
 5月27日午後1時半から午後4時ごろまで 
 場所 新長田勤労市民センター 4階 さざんか 078-643-2431
    JR新長田駅下車

  内容  
1、ホツマ関連の情報交換
2、研究成果 継体天皇とホツマ高島・福井・高槻
3、秋の研修旅行について
  行先の決定  案を募り決定します。  
   山陰、出雲、奈良等々
 
  出席ご希望の方は5月20日までに 以下の連絡先まで必ずご一報ください。

    рO90−6732−1086 林
    ファックス0797−32−0599 林
    メール prime.02w@k5.dion.ne.jp  林
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2014/5/15

聖徳太子と六甲山・神仏習合 ホツマ  

 聖徳太子と六甲山・神仏習合 ホツマ 平成25年 5月26日
 日本は神道の国です。仏教は、6世紀に公伝されました。もちろんそれ以前に、私的に仏教を信仰する渡来系の人たちもいたと思われます。
 仏教公伝の直後から、仏教を受け入れるかどうかをめぐって、6世紀後半の敏達天皇・崇峻天皇・用明天皇の時代に、激しい論争があり、氏族間の対立にまで広がりました。しかし、これをよく調べてみると宗教対立ではなく、豪族間の勢力争いであったようです。学校の歴史教育では崇仏派の蘇我氏と神道派の物部氏の対立、という構図で描かれます。しかし物部氏自身もすでに、現在の大阪府八尾市の渋川というところを本拠としていたのですが、そこに氏寺を創建していたことが発掘調査で判明しています。物部氏が廃仏派とは言い切れない証拠となるかもしれません。 
 そのころの日本は渡来系勢力も相当な力を持ってきており、また海外との国々との関係も緊密となってきました。国際的な視点も同時に要求されるようになってきていました。 
 仏教公認を巡って朝廷内でなかなか意見がまとまらなかったときに、厩戸皇子=聖徳太子は、神道・儒教、仏教を一本の樹木になぞらえ、神道を根本の幹として、儒教を枝葉とし、仏教を果実に例える具合で、儒教や仏教を受け入れる考えを示しました。なぜ、そのようなことが言えるのかといいますと、十七条憲法にその根拠があります。
 ところが現代にまで伝わるこの十七条憲法すら、720年『日本書紀』を編纂する過程で藤原不比等らの手によって、書き換えられてしまったようです。実は、聖徳太子の十七条憲法は全部で五種類あり、17×5の85条の条文からなっているのです。十七条五憲法というのですが、このうちの一つだけが内容を改竄された形で、歴史教育の中で知られているものなのです。残る4種類はそれぞれ、政治家に対する憲法、儒学者に対する憲法、仏教伝道者に対する憲法、そして日本の神道に仕える神職への憲法です。聖徳太子憲法は内容を五分の一に削られてしまっていた可能性があります。
 そしてよく知られた、「和(やわらぎ)をもって貴しとなす」、これは、そのまま十七条憲法の文言として現代にも伝わっています。これは、ホツマの中でも最も重要な精神である、和(やわ)すことの重要性を説いたものです。
 もう一つ有名な「篤く三宝を敬え」という言葉、これが巧妙に書き換えられているのです。三宝とは「仏法僧」である、と、一般に思われていますが、元の五憲法の中には、この三つの宝の「三宝」とは別に、三つの法、「三法」と記され、「篤く三法を敬え」とあり、この三つの法の「三法」とは神・儒・仏の事を示していることが記されているのです。聖徳太子は、あくまで神道を基礎としながら、海外の教えを尊重し、学問としてインドの仏教、中国の儒教を学ぶことで、神道の精神をさらに深めていこうというお考えだったのです。
 神・儒・仏とはしているものの、内容を見てみると、神の存在を否定する儒教に対しては、その点を厳しく戒めています。
 さて、この聖徳太子による仏教公認・国教化が、同時に神仏習合のきっかけとなりました。日本では552年仏教公伝の直後より、大陸仏教の純粋な形ではなく、日本の神を仏教的に祀る神仏習合の方法が採用されたわけです。
 調査の結果、『古事記』、『日本書紀』に記された日本の神話は渡来系によって、相当に書き換えられていった形跡があるといえます。残念なことに神々の関係が歪められ、性別が逆にされたり、消されたりした神もいらっしゃいます。これらの書き換えは、最も早く見るならば、ホツマが完成した直後、仲哀天皇が謎の崩御の後に天皇が不在、日本の歴史にポカリと空いた大空位時代が70年も続き、応神天皇が即位したころから始められたた可能性があります。渡来勢力との政治的妥協を余儀なくされた皇室とその臣下は、渡来系および物部氏の一部勢力によって、神道の内容を書き換えられていくことに抵抗できない状況に置かれたものと思われます。

 聖徳太子はそのことも踏まえて、神道・神話を本来の形から変えてしまった敵対勢力をも意識しながら、現実的にとりうる政策を考え出しました。それが神仏習合だったのです。
聖徳太子は、神仏習合=神・儒・仏を一体とするその考えを具体化するために、難波の地に四天王寺を建立します。四天王寺は、神仏合体のお寺です。境内の西門には大きな鳥居があります。これには難波の港から上陸する大陸から渡来してきた人々に、「これから神の国に入っていくのだ」ということを意識させる目的もあったと思われます。
 東門近くには伊勢神宮遥拝の場所、南門の近くには、熊野権現の遥拝の場所があり、また境内には政敵であった、物部守屋を祀る神社まであります。これは聖徳太子の最も重要な、和(やわらぎ)をもって貴しとなす、の考えが具体化された形といえるでしょう。かつての敵も、ちゃんと尊重しているわけです。

 六甲山とその周辺の神社や寺院、伝承、磐座などを調べた結果、聖徳太子が六甲山と非常にご縁があることを見出しました。これにより、聖徳太子が、決して仏教のみを信仰していたのでないことに気づきました。六甲山周辺で聖徳太子と関わる遺跡は結構あります。最も有名なものが、宝塚の中山寺です。中山寺は、応神天皇の時代に、皇位継承をめぐって抗争の中で無念の死を遂げた忍熊王・香坂王とその母君大仲姫、そして聖徳太子の政敵であった物部守屋を弔う目的で創建されたのです。
 そして宝塚の逆瀬川には塩尾寺(えんぺいじ)、小林には平林寺があります。三田市にも、鏑射寺(かぶらいじ)があり、いずれも聖徳太子開基の寺院です。
甲陽園には聖徳太子が造られた診療所があったという伝説もあります。
 9世紀初頭に空海とともに甲山の神呪寺(かんのうじ)を開いた淳和天皇の元お后、真名井御前は、京都の六角堂(頂法寺)で如意輪観音を信仰していましたが、この頂法寺は、聖徳太子開基のお寺です。華道の池坊とご縁のあるお寺で、如意輪観音が本尊です。聖徳太子が持仏とした如意輪観音は弁財天と同じ神ととらえられるようです。
 六甲山系甲山の神呪寺も、六角堂=頂法寺で修業された真名井御前が如意輪観音を祀っているので、聖徳太子の御意志を継いで創建されたお寺である、といえるのです。ついでながら、甲山の西側の六甲山の麓にある鷲林寺(じゅうりんじ)には廣田神社祭神と深いつながりのある麁乱荒神=鷲(わし)不動明王が祀られていますが、宝塚の清荒神の清三宝荒神とは、この鷲不動明王と同じです。
 有馬温泉には聖徳太子開基の極楽寺があります。御影・住吉方面には、綱敷天満宮がありますが、聖徳太子が四天王寺創建のとき、六甲山から石を切り出す際にこちらの神社に倉稲魂神(うがのみたまのかみ)を祀り、切り出した石を御影石と名付けられました。聖徳太子は六甲比女神社の北側と南側にそれぞれ、足跡を残しているわけです。
 六甲山、御影の山に阿弥陀如来のお姿が現れた、ということから御影山と呼ばれるようになったという説もあります。これが、御影と御影石の名前の由来となります。そのほか、綱敷天満宮には聖徳太子の遺品が奉納されています。六甲山と聖徳太子はこのように深いご縁があります。
 六甲山とその周辺は、伊勢神宮と深いつながりを持っています。六甲山は江戸時代まではムコ山と呼ばれていました。そしてもっと古くには向か津峰と呼ばれていたのです。向か津峰全体はかつて、西宮の廣田神社の領地でした。その領地に寺院を建立する際には、土地の神として、廣田の祭神を鎮守の神として祀っているはずです。それが、六甲山周辺寺院に多く祀られている弁財天です。弁財天は、古くは吉祥天と呼ばれ、皇室にとって大変重要な神です。神仏習合で祀られた神ですが、吉祥天を祀った最初の方が聖徳太子、と思われます。そして吉祥天にはご家族があり、その夫に当たるのが四天王のうちの多聞天、またの名は毘沙門天なのです。毘沙門天も吉祥天も大日如来の化身といわれ、不動明王も大日如来と不離一体といわれます。
 大日如来の垂迹神は天照大神です。つまり、四天王寺には天照大神の本地仏である大日如来、大日如来のお働きをされる不動明王、毘沙門天・吉祥天のご夫婦が祀られているのですが、六甲山周辺も大日如来・不動明王、毘沙門天と吉祥天、弁財天を祀る寺院が非常に多いのです。 
 聖徳太子は622年に49歳で亡くなります。その20年後に役行者が誕生され、役行者も六甲山、甲山で修行をされ、その時に弁財天と出会われています。それが神呪寺の南の丘にある、廣田明神影向岩(ひろたみょうじんようごういわ)といわれる岩のところです。その後役行者は、奈良県吉野の天河へ向かわれ、天武天皇の前で舞われた吉祥天を天河弁財天として祀ります。また吉祥天が舞われたことを記念して、宮中では御祝い事の際に、五節の舞が舞われます。現在でも、大嘗祭の時に五節舞が舞われています。 
 役行者は、天河弁財天神社で吉祥天を、伊勢神宮の天照大神と分けることのできない=不離一体の神として祀っています。廣田神社の祭神も天照大神荒御魂で、天照大神と一体の神です。別の御名が六甲山の旧名と同じ、向か津姫です。またの名は瀬織津姫です。
 役行者が亡くなって、その約百年後に、今度は弘法大師空海が、香川県善通寺で誕生されます。実は聖徳太子の生誕地と、天武天皇の御陵、役行者の生誕地である御所市の吉祥草寺と、空海の善通寺の産湯の井戸とは、すべて一直線で並びます。このことから、聖徳太子、天武天皇、役行者、空海が神霊的な世界でつながっており、同じ使命を果たすためにご活躍されたのだといえます。
 空海の亡くなられた場所は高野山奥の院ですが、空海生誕地の真東に当たります。 その2地点を結ぶライン上に瀬織津姫を祀る日前宮と天河弁財天が位置します。
 65代天皇であった花山法皇は、わずか2年で皇位の離脱を余儀なくされ、その直後仏門に入るのですが、花山法皇を導かれたのが仏眼上人です。仏眼上人は熊野権現の化身といわれる方で、大阪府太子町の叡福寺の僧侶でした。叡福寺とは、ズバリ、聖徳太子の御廟を守る寺です。聖徳太子、および聖徳太子の御遺志を継ぐ人々によって、六甲山を守るお働きが継承されていた、というわけです。
 では、そのお役目とは何だったのでしょうか。それは伊勢神宮の祭神を仏教的に守り、複雑に絡む神道と仏教・儒教の関係を整理して、日本国内で宗教戦争が起こらないようにされ、神仏で日本の国を守り、人々の生活を守ろうとされたものと思われます。 
 もし仮に神道を基本としながら、仏教、儒教の考え方を大切にしていく、という方向性を取らなかったとすると、日本も諸外国の例にもれず、宗教対立によって多くの不幸な事件が起こっていたと思われます。
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2012/9/2

トの教えは教育勅語に反映!  

 8月26日の関西ホツマの集いの学習報告の中で、清藤代表より、衝撃的な発表がありました。 トの教え は明治の教育勅語に記されている、というものです。
以下に、現代語訳を掲載します。

http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/kobore8/4132chokugo.htm
 私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。
 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日
天皇の署名と印


朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、璽鮗�(た)ツルコト深厚ナリ。我(わ)ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。爾(なんじ)臣民(しんみん)父母(ふぼ)ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友(ほうゆう)相(あい)信ジ、恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆ニ及ボシ、學(がく)ヲ修(おさ)メ、業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ、以(もっ)テ智能ヲ啓發シ、軸�(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕(ちん)ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラズ、又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。
斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ遺訓ニシテ、子孫臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所(ところ)、之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)璽魄�(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
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2012/5/2

六甲山の遺跡 ホツマツタエを実証  

 六甲山はかつて向津峰と呼ばれ、武庫山の漢字があてられ、中世以降に現在の六甲の表記となります。
 六甲山は全山が西宮廣田神社の社領でした。
ではなぜ、この山全体が廣田の社領となったのか、それは、廣田神社祭神のホコラ=奥都城がこの山中にあるからです。

 廣田神社の祭神は天照大神荒御魂、つまり男神アマテル様の后、セオリツヒメ(瀬織津姫:背降り津姫)またの名を、撞賢木厳魂天疏向津姫(ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメ)であり、その祭神名から、古くはムカツ峰と呼ばれたのです。ムカツからムコウ、ムコとなり、武庫の漢字があてられ、この地域一帯が武庫の里と呼ばれていたのです。近代まで郡名に武庫郡として残り、宝塚市の六甲山系の一部の山は今も武庫山と呼ばれており、その麓を武庫川が流れ、尼崎には武庫之荘の地名もあります。
 これらの地名の由来は、廣田神社の祭神名からにほかなりません。
 六甲山のムカツ姫=セオリツ姫のホコラ。
 山岳愛好家や磐座研究家にはその存在を知られていたものの、今まで誰にもそうであると気づかれることなく、役行者の末裔を中心とする少数の人たちによってひっそりと守られてきました。
 ホツマが世に出なくては、日本の世の中が治まらないくらい、日本の精神状況、思想状況が危機に追いやられています。
 ホツマが真書であることを証明する一つの重大な遺跡、それが、ホツマの記述の通りに存在した、六甲山、ムカツ姫のホコラなのです。
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2012/4/11

旬刊旅行新聞にホツマサミット!!  

 ホツマサミットのことが紹介されています! 

http://www.ryoko-net.co.jp/modules/headline/index.php?page=article&storyid=841

 >古代文字の文献「ホツマツタエ」の研究者や、「ホツマ塾」(代表者・一糸恭良氏)、「ホツマ観光研究会」(原祥隆会長)などのメンバーが一堂に会し交流する「ホツマサミット2012」が3月24日、三重県伊勢市二見浦の賓日館と朝日館で開かれ、全国から100人を超える参加者が集まった。



 同サミットを呼びかけたのは、ホツマツタエの研究者の一糸恭良(いと・やすよし)氏。「古代史ホツマツタエの旅」全5巻、「日本のかほり」などの著書がある。

 当日は、一糸氏に加え、池田満氏、清藤直樹氏、大江幸久氏の4人の研究者がパネルディスカッション「ホツマツタエを語る」を行った。司会は、東洋大学国際地域学部国際観光学科准教授の島川崇氏が務めた。

 一糸氏は「昭和41年にホツマツタエが発見されてから46年、あまり世に出ることがなかったがこの1年の動きを見ていると、ホツマツタエへの関心の高まりを感じている。このホツマサミットがその幕開けになると期待している。ぜひ、ホツマツタエを広く普及していきたい」と語った。

 「ホツマツタエ」は1966(昭和41)年に故松本善之助氏(現代用語の基礎知識・自由国民社初代編集長)によって再発見(最初の発見は江戸時代)された未確定の歴史書。現在、古事記・日本書紀の原書として研究が進んでいる。

 ホツマツタエは古代文字で書かれ、記紀が神話(天孫降臨伝説)とした世界を、神話ではなく、人の営み(実話)として描いている。<

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2012/3/26

ホツマサミット大成功!!!!  

 
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 3月24日、25日、歴史上画期的なホツマサミットが伊勢、二見ヶ浦、皇室と深い御縁を持つ賓日館と同じく二見ヶ浦の朝日館にて盛大に開催されました。

 催しの発表からほどなく募集定員いっぱいとなったようです。すでに時代は、このようなホツマをテーマとする催しが頻繁に開催されるべき段階に入ってきていることを強く感じました。
 まずは今まで、全国各地で、分散独立していたホツマ研究者、ホツマ研究グループの結集が肝心です。大同小異、細かな各論での意見の相違は大目に見ながら、ホツマを広く世に広めるべき時が来たとの共通認識を皆さんが共有できるよい機会となったと思います。

 参加者の皆さんは、真実の書、ホツマ、探求し続けて行き着くところはホツマ、その自覚をしっかり持って、ホツマの重要性を認識した人々が団結してポジティブに、時にアグレッシブにホツマを広め、ホツマの意義を世に広めていくことの重要性を強く認識されたと思います。

 主催された一糸恭良(いとやすよし)さん=いときょうさん、東洋大学教授の島川教授、このような素晴らしい機会をおつくりくださってまことにありがとうございます。 
 
 プログラムです。
 開会のあいさつ
一糸恭良(いとやすよし)氏(ホツマ塾 代表)

アマミ舞 アワのうた アマミ舞 舞人の方々
奉呈文奏上 (ホツマツタエを述ぶ) 鈴木由利子さん

歌 Aikaさん
あわの歌 さくら さくら 組曲

「アマテルカミご生誕の歌」舞 花柳鶴寿賀さん 土佐琵琶 黒田月水さん 語り 山下 晃彦さん
 パネルディスカッション「ホツマツタヱを語る」
パネリスト 池田満さん 清藤直樹さん 白兎の小使い 一糸恭良さん
閉会の挨拶  原 祥隆さん(ホツマ観光研究会 会長)


二部 朝日館にて懇親会
 2日目 禊
     伊勢神宮内宮正宮正式参拝
     荒祭宮参拝 
    解散
 アマミ舞、鈴木さんの美しい朗読、花柳さんたちの神の舞、Aikaさんの天界から降りてくるような美しい歌声、どれも神々様に喜んでいただける、格調高いものです。
 特に、花柳さんたちの舞はいときょうさんの創作された五七調の詩に基づく舞で、その神々しさは、神代の時代の情景を再現するものでした。

 筆者もなぜだか分かりませんが、パネラーの一人としてお声がかかり、いつもの調子で、お話してしまいました。

 「ハワイのある鳥取出身」、ということで自己紹介をすると100名を超える参加者の皆さんから笑いをいただけてとても幸せな気分となりました。

 今回のサミットに参加されていない全国の有名・無名のホツマ研究家、普及に努めておられる方もたくさんいらっしゃいます。

 近代、ホツマ発見と普及に、後半生のすべてを献身的に自己犠牲的に身をささげられた松本善之助氏の功績を踏まえ、(おそらく高畠精二氏の海外アカデミズムへの働きかけ=高畠氏が翻訳された外国語版ホツマの全世界の著名な大学への献本活動によって、実は海外から松本氏へノーベル賞を、という話も松本氏が亡くなられるほんの1年前に出ていたそうです!!!!!これ本当の驚くべき事実です。)、松本氏の思いを引き継ぎことはとても重要です。
 本当の正しい日本の神々の御功績、日本全国の神社の正しい姿、神話伝承の正しい内容を認識することによって、日本を立ち直らせ、ひいては世界全体をよくする方向へと導けるものと確信しています。
 司会の島川氏からは、最近著名な経営コンサルタントがホツマの精神に基づいた考えで経営をしていくことを解いていることの方向がありました。これは私も数週間前に、同様の話を名古屋の同業者から聞いていたばかりでしたので、あの方だ、とピンときました。
 また、島川氏は世界中を駆け巡った直後のサミットご参加、ということで、少し体調を崩されていたのですが、開会直前に関西ホツマの集いの清藤代表から操体法に基づく整体療法を受けた直後にお体が回復されたことを報告されました。
 この操体法の考えは、ホツマに記されている考えと偶然にも一致したたいへん理にかなった整体法であることが、清藤氏から紹介されました。 
 池田満氏はあくまでヲシテ文字(ホツマ文字)に基づいて、漢字というバイアスを通じないでダイレクトにホツマ、ヲシテ文献を研究することの重要性を説かれました。
 清藤氏は、ホツマは、受け手によって、幾通りにも解釈できる余地を残すものである、現時点ではまだまだ解明されていないことも多く残っている、またどの研究者も、全然間違いがないということはありえない、幅を持って解釈する必要性があること、また日本の文化の起源はなんでもかんでも中国ルーツのものである、といった間違った考え方が、ホツマを知らされないことによって生じている、本当は日本から素晴らしい文化が発祥してそれが大陸に伝わり、また逆に流入してきたものであるのにすぎないのであり、日本人はもっと誇りを持つべきだ、ということも力強く強調されました。 
 筆者はパネルディスカッションで、自身の研究の結果、ホツマを真実の書であると、ますます確信を強めていったことを述べました。
 また、伊勢神宮が、鳥居礼氏の絵画奉納を要請されて数十枚もの神道絵画を制作されていること、鳥居礼氏はホツマ研究家で、氏が出版した著作はすべてホツマをテーマとするものであり、そのことを踏まえた絵画要請は、神宮側がホツマを容認され始めたことの重大なサインであること、また、今上天皇のお姉さまにあたる池田厚子伊勢神宮祭主、秋篠宮様、高円宮様も鳥居礼氏の絵画展にお越しいただいていることも、意味の深い大きなできごとであることを報告しました。

 http://www.toriirei.jp/profile.html
 ホツマによって、丹後元伊勢の解明ができること、因幡の白兎と天照大神の伝承も、確固とした根拠を持つものであること、瀬織津姫が晩年お過ごしになったにもかかわらずその名が全然伝わっていない廣田・六甲山周辺の社寺・遺跡の意味も判明すること、これらは古事記・日本書紀では全く解明できないものであることを述べました。

 また、ホツマを世に広げるために、神社と関わる祭神顕彰の一環として奉納画を献上することや、地域の神社と密着して自治体や、地方マスメディア・地元有力者たちと深いつながりを持つことの重要性も強調しました。(これは昨今スピリチュアル系が、恣意的に、特定の神を選び出してゆがんだ信仰を流行させ、日本の神話体系から逸脱する扱いをして、本来の神々の御関係を勝手に変更したり、時として神々の序列を崩したり、日本の伝統を守り抜いてこられた皇室を軽視、無視する風潮を蔓延させていることへのアンチテーゼでもあります。 特に秦氏が自分たちのルーツを偽るのに利用している神武系ではないニギハヤヒを始祖として、天照大神と同じ、あるいは同等、とみなす考え方は、皇統を否定する危険極まりないもので、それこそ仲哀天皇の時代から潜伏する、現皇室の系統の正当性を否定する勢力を利するものであることをしっかり見極め、厳しく対処していく必要があります。)

 ホメロスの叙事詩を信用して必ずそれに基づく遺跡があるはずだ、という確信のもとに、トロイヤの遺跡を発掘したシュリーマンと同じ気持ちで、全国の在野の皆さんが、ホツマを基にしてそれを裏付ける様々な証拠を発見することがとても重要なことであることも強調しました。

 2日目の伊勢神宮正式参拝に置いては、先日、小泉八雲の生まれ変わりのような雰囲気を持っておられる高畠精二さんから頂戴したフトマニ図のハンカチ=バンダナを高く掲げて、ホツマサミット会員の目印として、また、ほかの伊勢神宮参拝者の皆さんにもホツマを知っていただく絶好のアイテムとして活用させていただきました。高畠さん、本当にありがとうございました。高畠さん、次回(まだ未定ですが)は是非お越しくださいね。
 それにしても、伊勢へ来るたびに参拝客がものすごい勢いで増えているのをひしひしと感じます。人々の心が神へと戻りつつあるのではないでしょうか。悪い話ばかりではないと強く思いました。
 二次会の席で、池田満氏のお話を聞く機会がありました。記紀では無視に近いくらいほとんど軽視されている、天照大神と瀬織津姫の御子神、天忍穂耳命が、神代の時代に起こった地震と思われる大災害の後に東北地方で政務をお取りになって、復興の陣頭指揮をなさったのではないかというお話をされたときには、筆者はとてもうれしく思いました。その根拠は天忍穂耳命のイミナであるハゴクニ、ハコネカミ、というふうにハコという言葉にヒントがある。ハは春のように、万物が生まれ出る、反映すること、コは固める、安定させる、という意味があり、天忍穂耳命がハコネ神と呼ばれた理由は、そこにあるのではないか、ということでした。(若干聞き間違い、記憶違いがあるとは思います。)
二次会では、丹後からいらっしゃったグループの方々と熱いお話ができました。私なりに研究してきた成果が、丹後の方とこの伊勢の地でお話しできたことには深い意義がありました。私が知らなかったこともたくさん教えてくださって、まことにありがとうございます。ちょうど1週間前に高畠精二さんをお連れして丹後を旅行して新たに判明した事実をお伝えできたのも、一つの大きなシンクロ現象です。今後、お互いに互いに丹後の古代史の真相を追究するものとして絶好の機会を与えられました。
 
 史上初かも!
 高畠精二氏(日本翻訳センター)制作 フトマニ図のバンダナ(ハンカチ)を掲げていざ、伊勢神宮正式参拝!!
 高畠さんのホツマツタエのサイト
http://www.hotsuma.gr.jp/
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 Aikaさんのブログにもレポートがアップされています。白兎の小使いも写ってました!!!
http://blog.livedoor.jp/aika_magic/archives/1911998.html

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2011/11/17

秋の旅行記録  

第43回 関西ホツマの集い
           平成23年11月研修旅行 略記
                             文責 TT
1、旅行日:平成23年10月29日(土)〜30日(日)
2、訪問先:@日向大神宮⇒A花山稲荷神社⇒B伏見稲荷大社⇒C大原野神社⇒D今城塚古墳⇒E磐船神社⇒ホテルセイリュウ泊
F石切劔箭神社⇒G枚岡神社⇒H譽田八幡宮⇒I羽曳野白鳥陵⇒J狭山池⇒K陶荒田神社⇒L住吉大社⇒M坐摩神社

3、参加者:1号車 清藤 N(ドライバー) I T S M O MY
2号車、K(ドライバー) Y YO S M U T(本記録執筆者) 計15名
            
4、略記
《第1日》
 10月29日9;00 JR山科駅に集合。今回の参加者は15名。おりから爽やかな秋晴れに恵まれ、1号車Nさんの車、2号車Kさんの車の2台に分かれての出発と相成りました。♪♪♪♪♪・・・・・

4、1日向(ひむかい)大神宮(京都市山科区)
    JR山科から京都に向かって約15分、東山三十六峯の一、神明山の中腹に位置する、日向大神宮に到着。ここで、参加者の顔合わせを済ませたあと、いよいよ神社巡りの始まり。
 山の中腹だけに、神域には桧・杉・松の老樹繁茂し、桜・つつじ・紅葉も多く、深山幽谷・風光明媚の清々しい神社です。手水舎には、十月桜の花も満開であった。

 ご祭神は内宮と外宮に分かれ、
・内宮:天照大御神、多紀理毘賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命(毘/比は由緒書き通り)
・外宮:天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと)、天之御中主神とされている。長幼の順番は異なるが、さしずめ、アマテルカミ、タケコオキツシマヒメ、タナゴイツクシマヒメ、タキコエツノシマヒメ、のことであろうか?
 いずれも、古事記記述に沿わしているため、表記は混乱を極めている。
(awa註 内宮本殿向かって左隣に瀬織津姫を祀る社あり。外宮は丹後籠神社より勧請された。)

 また、「京の伊勢」とも言われる通り、お社は伊勢神宮に似ており、上の内宮は内削ぎの千木に鰹木8本、下の外宮は、外削ぎの千木に鰹木7本、のたたずまい。
しかし、なぜか トヨケ がお祀りされていない? 宮司さん曰く、「筑紫の日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建したため」とのこと。
 周辺には、境内摂社10社の他、「天の岩戸」と称する人工岩穴や伊勢神宮遥拝所も設けられており、くまなく巡るには相当の時間を要する、景勝地であった。

4、2花山稲荷神社(京都市山科区西野)
 日向大神宮をあとに、東山ドライブウェイを一路南下、山科区西野へ。
この辺は昔ながらの迷路の上、道巾が狭く、車同士の行き違いもまゝならず、切り返し・切り返しの連続技。Nさん、Kさんの名ハンドル裁きでもって、なんとか花山稲荷神社に到着。
 周りは、一般住宅の他、お菓子工場や保育園が立ち並ぶ準工業地域。

 ご祭神は宇迦之御魂大神。言い伝えによると、この地を行幸された第60代醍醐天皇の夢に白髪白鬚の老人が現れ「私は宇迦之御魂」とお名乗りになった後「跡たれて 光やわらぐ西の山 人の願いを三つの柱に」と高らかに、繰り返しつつ、消えておしまいになった、とのこと。
 しかし、宮司さんはこの「三つの柱」の意味はご存じなく、ましてやこの地にハタレ・キクミチ三兄弟が集結したことなど、知る由も無いご様子であった。
 親切な宮司さんで、由緒書きを急遽増刷して頂くなど、懇ろに対応して頂いた。
 宮司さんの話によると、花山稲荷神社の東隣に「狐塚(来栖野狐塚)」という地名はあるものの、「塚」そのものは現存しない、とのことで、探索することなく、この地を後にした。「工場の敷地にでもなってしまったのでありましょう」というのが皆さんの推測でした。
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2011/11/17

秋の旅行記録2  

4,3伏見稲荷大社
    花山稲荷神社から開通したばかりの阪神高速京都腺稲荷山トンネルをくぐって
  伏見稲荷大社へ。お正月用駐車場整備工事で、通行制限中であったが、なんとか駐車場確保。ご鎮座1300年を記念して、本殿も新装成り、相変わらずの人混みであった。
   
ご祭神は、下社(本殿):宇迦之御魂大神、中社:佐田彦大神、上社(奥社):大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
 宇迦之御魂は、ソロの神ウケモチのこと。正しくはウケ(ノ)ミタマ。ウケモチはクニサツチの子で、トヨクンヌに初穂を奉った。
 オモダルの世の末からホホソ(粗稲or穂細)となったので、アマテルがよい苗(ウルソ種)を探していたところ、(…中略…)ウケモチの八代の孫カダマロがウルソの種を捧げた。カダマロは同時に蚕飼の道も伝授したので、「カダノミコトは世々の民護り司ぞ」と崇められるようになった。カダマロは勿論、三つキツネの命を助けた方でもある。
 伏見稲荷は稲荷山全体が神域になっており、上記3神の社の他に、摂社15社や名所千本鳥居、十数か所の神蹟地(霊場)など、見どころ満載の観光地(?)となっている。今回は世俗感溢れ過ぎの雰囲気に圧倒され、本殿のみの参拝に留めた。
《昼食休憩》
   少し時間は早かったが、伏見稲荷参集殿にて昼食休憩とした。別に満員でもないのに、天丼と天ざるのできるのに手間取り、大きく時間をロスしてしまった。

4,4大原野神社(京都市西京区大原野)
    伏見稲荷大社を後に、京都市南部を横断、小塩山麓の大原野神社に到着。Yさんのお友達が地元で、茶店と駐車場管理をされておられ、いろいろお話を伺うことができた。
 小塩山は、アマノコヤネが長男オシクモによって最初に葬られた場所である。しかし、由緒書きによれば、第50代桓武天皇の御代に、奈良春日大社の分霊を移し祀ることにしたのが起源と書かれてあり、本末が転倒している。
 そのとき、宮は東向きに建てられていた筈であるが、現在は南向きになっている。Yさんのお友達の話では、昔は東向きになっていたが、天皇行幸の際の区画整理によって道路が付け替えられ、宮も南向きに建て替えられたとのこと。
 ご祭神は、建御賀豆智命、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比メ大神の四柱。伊波比主命(いわいぬしのみこと)は聞き慣れないが、フツヌシのこと。これで、親子四柱がお揃いになった。
 その他境内摂社として、天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)をはじめ、8社が祀られている。

 神域には、紅葉や桜が多く、奈良の猿沢の池を真似て造った鯉沢ノ池には、カキツバタや水蓮の花が美しい。さながら、絵屏風を広げたようである。また、古歌に詠まれた瀬和井の清水は、古藤の根元に隠れて清らかであった。

4,5今城塚古墳((高槻市郡家新町)
 大原野神社を後に、長岡京を経て南下、高槻の今城塚古墳に到着。
ここは、今城塚古墳と今城塚古代歴史館とを複合した、広さ9ヘクタールの公園施設(いましろ大王の杜)となっている。
 今城塚古墳は、6世紀前半に築かれた淀川流域最大の前方後円墳で、学術的には、第26代継体天皇の「真の陵墓」と言われている。但し、1.5km西に「宮内庁が管理する」継体天皇陵があり、そのため、今城塚古墳は発掘調査が可能であり、且つ、人が自由に出入りできる公園に整備できたとのこと。
 本日の残り時間も少ない中、古墳ガイドおじさんに、古墳の造り方や出土埴輪の解説をお願いしながら、歴史館から古墳の見学を行なった。
歴史館の中に、帆掛け舟の破片もあり、ガイドさんの説明では、「この頃、すでに帆掛け舟があったと思われる」とのことであったが、ホツマツタエでは、六船魂の一人、シガ(の神)が、帆ワニなす、と記述されている。
 古墳横の埴輪展示場には、馬の埴輪や、どう見てもあひるにしか見えない白鳥の埴輪など、200点の出土埴輪が展示されていた。ガイドさんによると、ここの埴輪は写実性が極めて高いのが特徴で、埴輪時代の末期を象徴している、とのことであった。
 
 夕刻が迫ってきたので、ガイドさんへのお礼もそこそこに、次の訪問先である磐船神社へ急ぐこととした。

4、6磐船神社(交野市私市)
    Yさん、Sさんの地元高槻市を抜けて、枚方大橋を渡り、Uさんの地元枚方市も抜けて、磐船街道を一路南下。気は急くが、この地域の渋滞すさまじく、磐船街道沿いの、磐船神社に着いたのは、もう日暮れ間際の午後5時であった。

 生駒を源流とする天野川の上に建つこの神社には、社殿の北側に1個100トンもあろうかという巨石が、無数に積み重なっており、折からの日暮れどきとも相俟って、うっそうとした渓谷がその幽玄の美を醸し出していた。
ただ、名物「岩窟巡り」は、午後4時締切りとのことで、残念ながら、参詣は叶わなかった。

 ご祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてるくにてるひこ あめのほのあかりくしたま にぎはやひのみこと)。
  このお名前は、先代旧事本紀に記されているもので、数ある表記法からこれを選んだことに興味をそそられる。
 ニニキネの兄のクシタマホノアカリ・テルヒコと、ニニキネの孫のクニテルを、繋げて一つにしたようなお名前で、混乱の様子が伺えるが、一方で、十種の神宝のことや、ソラミツヤマトクニの話は正しく伝わっているのであるから、もう一押しの推敲をお願いしたい。
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